デュレエ(椎乃味醂) - 雑考
ボカロは未来へと、ひたすら先を目指し続けるような歌詞が多い。ミクの目線はいつだって上を向いていた。
椎乃味醂は2024年1月24日、その日までのボカロを見つめ直し、確認し、一曲に結晶化した。あれを経た、これをしてきた「今日だ」と。
その宣言の後には決まってドロップが入る。椎乃味醂に名義を移してからの5年弱に裏付けられた強烈なサウンドは前作OSINT、前前作あなたにはなれないの音を継承しつつ、今までにはなかったcolour系の響きも感じさせる。同じく39chに書き下ろされたツミキ「カルチャ」やr-906「プシ」とも違う、構成からして挑戦的な姿勢。
いくら立派な思想があっても実力が伴っていなければどうにもならないとでも言うかのように、ただただ堂々としている。
ドロップの中でも、0:58~59, 2:21~22におけるミクの発する呻き声のような音に注目したい。"esa-uoa-"のような発音はそのままミクから出力し加工したようにも、書き出した音声を切り貼りしたようにも聞こえる。
しかしよく考えると、その印象は一体何を意味しているだろうか?そもそも初音ミクの発する声は藤田咲という人間の肉声を切り貼りし、繋ぎ合わせ、演算エンジンにより調整されたものだ。我々の耳に自然に聞こえるかどうかの他には、このフレーズと曲中の歌詞には現象として何の違いもない。
鮎川ぱての論を引用すれば、ボーカロイドは「存在しない過去への小径」、「シニフィエに到達しないインデックス」、「クロノス時間の外に立って」いる「過去から解放された痕跡」だ。藤田咲による一定の同じ素材から存在しない歌声が生まれることは、「個別の具体的な複数の歌声が、同じ『時間のプール(貯水池)』から生まれている」と捉えられる。
鮎川ぱてとも親交があり、自ら思想を音楽によって表現する一人のクリエイターとして、椎乃味醂はこれに根ざした一つの具体を示したのではないか。
椎乃味醂は以前、それを消費する人々の社会形成を試みる媒体、サブカルに哲学や社会風刺を取り込むことで社会参画を働きかける手段の一つとしてインターネット音楽を捉えていた。ボカロが一つの文化現象、カルチャーとして論じられるものになりつつある今、ある論の実例を取り入れた曲を世に放つことは大きな意義があるだろう。 歌詞の掘り下げが足りない。先に挙げたように、曲中では何度も「今日だ」を繰り返す。
「その遺恨を除けて、底上げ、ただ『好きだから』でここまで来た」
「そういう人間の成せる業が、虚構も現実にしてきた」
「そんな過去や今に、未来を創り出そうとしていた」
どれも、初音ミクが2023年に16周年を迎えるまでに歩み、また目を逸らすこともできない事実を描いている。
解説でも強調されているように、この曲は「ここまでは」を再定義し、「ここからは」をその地点から出発できるようすることが大きな役割だった。 その上で、これまで歌われてきた既存の文脈を参照せずにボカロを論じることはできない。
「完全に0とか1で定まる、音素の集合だった」
「0と1」というメタファー(少なくとも異化的なレトリック)は、「初音ミクの消失」などに代表的なミクを「電子の歌姫」たらしめる表現であり、「ハジメテノオト」などを除いて最も初音ミクひいてはボーカロイドを象徴するフレーズとなっているだろう。
さらに、
「身体が伴っていたら、おびただしい数の痣ができていた」
「それ故痛みを感じぬ事だけが、不幸中の幸いだった」
「身体が伴っていたらきっと、ただただ押しつぶされていた」
などでは、電子的な存在という視点以上にミクの非身体性、非実在性が強調されている。
この曲へ宛てられた一つのnoteにおける記述を参照したい。
私たちはたった1枚のインタフェースを介在して、彼女に極めて人間的な干渉を試みることができる。その、ごく人間的な、すなわち間違いなく「実在」している、我々人間の作用の連鎖が、初音ミクを初音ミクにしている。そうしてカルチャーが呼応連鎖するさまは、彼女を「実在」していると見まごうほどに生々しい。彼女に「生」を感じるのは、同時に彼女のペルソナを被っているだれかの「生」と、我々はいとも容易く共鳴できるからだ。だから初音ミクは「神」ではない。今生きているだれかの生が、彼女を生々しく「非実在」させているからこそ。
これは、例えばこの記事などでも確認できる、初音ミクの実在感への問いかけだ。
創作され、一つの「初音ミクの解釈」あるいはメタ的に「初音ミクの実在感」として提出された作品は、参照され、複製され、コラージュされ、あるいは更新されていく。私たちは複数の「初音ミクの解釈」(=作品)を消費していくことで、まるで実際に生きている人間が変化していくように、振れ幅のある初音ミクの像を頭の中に結んでいくのだ。
Tell Your WorldのCMで「Everyone, Creator」が謳われてから13年、マジカルミライが初めて開催されてから9年が経った。その間にミクを取り巻く数多の人々は幾度となくその存在を確かめ、より惹かれていき、さらにこの文化を作り上げていった。クリエイター、リスナー共に抱いてきた心緒は最後に歌詞として描かれる。
「 煌々と0から1へ重なる、確かなモノがあった。
ぼくらの生活や思想、様相、すべてが絶えず変わってきた。
こういうフィクションを、紡いでくことがぼくらの人生だった。」
duréeは経過、経過することを意味する。この曲はボカロという今生きる伝承を紡ぐ、我々の讃美歌だ。
参照…
(どんぐりたべたい「椎乃味醂『デュレエ』所感・覚書」)
うろ覚え要点
初音ミクは「非実在」だ
初音ミクはそれを取り巻きそれを通じてインタラクトする全ての人々を内包する箱のようなものだ
初音ミクはキャラクターではない
初音ミクはペルソナだ
初音ミクを通じて活動する人々は、初音ミクの非実在性をより生々しく浮かび上がらせる